終活・生活・再生日記 「夢幻」

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毎月27日は廬遮那仏、三上大明神の縁日です。今日のパワースポットは?

 

毎月27日は➀廬遮那仏、➁三上大明神の縁日です。

➀廬遮那仏(るしゃなぶつ)=毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の1つ。大乗仏教で、蓮華蔵(れんげぞう)世界に住し、その身は法界に遍満し、身光・智光の大光明で全宇宙を照らす仏。

元は太陽の光照のことであったが、のちに仏教の根源的な仏とされた。


東大寺 奈良の大仏 盧舎那仏 華厳宗大本山 ユネスコ世界遺産 奈良


宗派で考えが異なり、真言宗では大日如来、法相(ほっそう)宗では毘盧遮那、盧遮那、釈迦を自性、受用、変化の三身に配釈し、天台宗では法身、報身、応身の三身に配し、毘盧遮那と釈迦の同体を説く。

廬遮那仏は三十日秘仏の二十七日仏。
盧舎那仏とも書きます。光明遍照こうみょうへんじょうともいいます。太陽を意味します。

毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)は
 盧舎那仏(るしゃなぶつ)とも呼ばれます。毘盧舎那とは太陽の意味であり、宇宙の中心から太陽のように照らし続けます。

 釈迦は心理を悟りそれを仏法として人々に伝えました。その心理そのものが毘盧舎那如来です。毘盧舎那如来がいなければ釈迦は心理を悟ることは出来ず、釈迦がいなければ仏法は人々に伝わらなかったといいます。毘盧舎那如来法身仏(ほっしんぶつ)の代表的な存在です。法身仏とは、仏教の教えそのものを神格化した仏のことです。

台座は1000の連弁をもち、そのそれぞれが100億の世界を持っているとされています。そして毘盧舎那は1000の釈迦仏を化現し、そのそれぞれがまた100億の釈迦仏を現して世界を説法するとされています。このように仏の智恵のはかり知れない大きさを象徴し、十方諸仏を包括し、広大な仏教世界の中心に君臨する如来が毘盧舎那です。

ご利益
 現世安穏、所願成就などのご利益があります。

毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)の像容
 蓮華台座や光背にはたくさんの釈迦仏が描かれており、教えを説いているとされています。右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶのが一般的です。

有名寺院と像

奈良県唐招提寺
奈良県東大寺
福岡戒壇院の本尊が著名である。

概要
毘盧遮那とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。

史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれている。

 毘盧遮那仏は完成当初、約16mだったが戦乱などで被害を受け、作り直された結果、現在は座高が16.2m、顔の長さが4.8mになっている。

密教
真言宗などの密教における「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏、Mahāvairocana(マハー・ヴァイローチャナ))は、大日如来と呼ばれ、成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説がある。

仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像奈良の大仏東大寺大仏)が有名。同様に、鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名であり、鑑真が中国からもたらした盛唐様式の作風を伝える彫刻として貴重な存在である。

尊名に於いて舎と遮の使い分けであるが、華厳経では毘盧舎那仏(舎)であり、大日経では毘盧遮那仏(遮)と記述されている様である。


➁三上大明神 御上神社
御上神社(みかみじんじゃ)は、滋賀県野洲市三上にある神社。式内社名神大社)、旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社


滋賀県のパワースポット 御上神社(みかみじんじゃ)

 

 

概要
琵琶湖南岸、「近江富士」の別名もある三上山(標高432メートル)の山麓に鎮座し、三上山を神体山として祀る神社である。三上山は藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治伝説でも知られる。

境内には国宝の本殿のほか、拝殿・楼門・摂社若宮神社(いずれも国の重要文化財)を始めとする社殿が残る。また、国の重要文化財指定の木造狛犬京都国立博物館寄託)を伝えるほか、秋季古例祭(ずいき祭り)は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

◆ご祭神について
祭神は次の1柱。
天之御影命(あめのみかげのみこと)
天津彦根命の子(天照大神の孫)。鍛冶の神である天目一箇神と同一神とされ、日本第二の忌火の神とされる。

参拝形式 二拝二拍一拝

◆ご利益
火防守護 鍛冶業守護 鋳物業守護 他[対応業種]鉄鋼業 心願成就、諸願成就、開運厄除け

 家内安全 開運招福 災難除け
 
■パワースポット 三上山
 
 
■ご祈祷内容 安産祈願、初宮詣、七五三詣、交通安全、厄除、その他

 

 ※訃報

学習院大名誉教授の篠沢秀夫10月26日未明、都内の病院で死去 84歳


TBS系「クイズダービー」の解答者として人気を集めた学習院大名誉教授の篠沢秀夫(しのざわ・ひでお)さんが26日未明、都内の病院で死去した。84歳だった。09年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、自宅で闘病生活を送っていた。葬儀・告別式の日程は未定。喪主は妻礼子(れいこ)さん。

 篠沢さんは昨年8月に体調が悪化して入院した。その後、同11月、今年5月と6月にも肺炎などで入院。9月ごろに体調も良くなり退院予定もあったが、今月初めから再び体調が悪化。礼子さん(77)と3人の子供、1人の孫が見守る中、静かに旅立った。

 01年に大腸がんを患い、手術したことを告白した。術後の経過もよく、仕事も続けていた。しかし08年ごろから、ろれつが回らず、09年1月に検査入院後、全身の筋肉が徐々に動かなくなるALSと診断された。礼子さんの献身的な介護に支えられ、自宅で療養を続け、会話が筆談になりながらもパソコンを使って執筆活動は継続。闘病の心境をつづった「命尽くるとも」の出版や講演もこなした。

 この日午後、病院から篠沢さんに付き添って帰宅した礼子さんが取材陣に対応した。若い頃に交通事故に遭っても助かり、椎間板ヘルニアも手術せずに仕事を続けていただけに「奇跡を起こしてくれるはず」と願っていたという。

容体が悪化して医師に余命1週間と言われたが「3週間も頑張ってくれました」。最期は「安らかに眠るようでした」。闘病生活を「主人は、うらやむ、うらむ、怒るということをしないで自然のままに病気を恨まずに受け入れて平常心でいつもニコニコしていました。娘や私が呼ぶと目を動かしてくれたんです」と振り返った。

 篠沢さんは学習院大などで教授を務める一方、「クイズダービー」に、漫画家はらたいらさん(享年63)や「三択の女王」と呼ばれた竹下景子(64)らと解答者として約10年間レギュラー出演した。丸顔に黒縁メガネで笑みを絶やさない親しみある姿と教授らしからぬ珍回答の連発で笑いを誘い、お茶の間の人気者になった。番組出場者が最終問題で大逆転を狙い全点を賭ける「篠沢教授に全部!」は流行語にもなった。

 昨年7月に亡くなった司会の大橋巨泉さんからも番組中に「よくそれで大学の先生が務まりますよね」とからかわれ、笑顔で応じる姿も印象的だった。保守派の論客でも知られ、テレビなどで論陣を張った。


昨日訃報が届いた学習院大名誉教授の篠沢秀夫さんといえば、屈託ない笑顔が目に浮かぶ。昭和52年から11年間、TBS系の「クイズダービー」でレギュラー解答者を務めた。通算正解率は3割2分7厘。司会の大橋巨泉さんが珍答、迷答をからかっても、「3割程度の正解率が上品」と笑い飛ばしていた。
 ▼知名度が上がって講演依頼も増えたが、なぜかお呼びがかかるのは東北地方ばかりだった。あるとき、主催者との会話で戊辰戦争が話題になって謎が解けた。負けてもニコニコしているのがいい。励まされる、というのだ。
 ▼テレビのワイドショーで、天皇陛下の1年後輩だと話すと、今度は「皇室評論家」として、「官軍の地」からも依頼がくるようになった。実は学習院の歴史は戊辰戦争と大きく関わっている。明治10年の創設に際して、敵味方に関わりなく旧藩主の子弟を受け入れた。篠沢さんによれば、学習院は、「国民融和」を加速させる存在だった。
 ▼国民学校6年生のときに終戦を迎えた。日本民族再興のためには、敵の文化の調査が欠かせないと英語を学び始めた。もっとも西欧の精神を理解するのは、フランス語を勉強すべきだと気づき、以来その道一筋である。高校時代は数学の時間でも、一番前の席でランボーなどを読んでいた。クイズダービーに出演した理由の一つも、不得手があってもいい、とのメッセージを伝えることだった。
 ▼フランス文学の専門書や訳書はもちろん、西欧との比較から日本の皇室や愛国心を論じた著作もある。難病と闘いながら、執筆活動を続けていた。
 ▼「日本は美しい国です」。4年前に出した『日本へのわが遺言』に繰り返されている文言こそ、篠沢さんがたどり着いた結論であろう。


★篠沢 秀夫(しのざわ ひでお、1933年6月6日 - 2017年10月26日)はのフランス文学者、学習院大学名誉教授。東京都大田区大森出身。血液型はAB型。趣味は乗馬。

配偶者 篠沢礼子(妻)
学問研究分野 フランス文学
称号 学習院大学名誉教授

現日比谷高卒。学習院大文学部から東大大学院に進学、フランス文学を専攻。

パリ大留学後、73年に学習院大教授に就任、04年から名誉教授。77~88年にかけてTBS系「クイズダービー」に出演。1枠のレギュラー解答者を務め、学者らしからぬ珍解答で人気に。13年に瑞宝中綬章受章。趣味は46歳で始めた乗馬。血液型AB。

◆略歴
1948年 - アテネフランセでフランス語を学ぶ
1953年3月 - 東京都立日比谷高等学校卒業
1957年3月 - 学習院大学文学部フランス文学科卒業
1959年3月 - 東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程修士課程修了、フランス政府給費留学生試験に合格しフランス・パリ大学へ留学(1959年 - 1961年)

1962年9月 - 学習院大学文学部非常勤講師
1963年4月 - 明治大学法学部専任講師
1966年 - 明治大学法学部助教
1971年 - 明治大学法学部教授
1973年4月 - 学習院大学文学部フランス文学科教授
2004年3月 学習院大学を定年退職
2004年6月 - 学習院大学名誉教授
2013年4月 瑞宝中綬章叙勲
2016年8月からは肺炎により亡くなるまでの間、4回入退院を繰り返していた。
2017年6月から肺炎で入院。一時は回復の兆しを見せたものの、10月に入り容態が急変。夫人によれば腎機能にも障害が出ていた。10月26日午前1時49分、東京都文京区の東京大学医学部附属病院で肺炎により死去。84歳没[

 ◆クイズダービー 1976年(昭51)1月から1992年(平4)12月までの17年間、TBS系で放送されたクイズ番組。初代司会は大橋巨泉さん、2代目は徳光和夫。出場者が正解すると思う解答者に、持ち点を賭けて増やしていく方式で、解答者によって的中時の倍率が決められた。「せーの、ドン」「さらに倍」などのフレーズが流行。40%を超える視聴率を記録するなど人気を誇った。

 

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