6月11日は川島雄三(映画監督)の忌日&ブッダの言葉
☆彡忌日 6月11日 1918-1963年 川島雄三(映画監督)
『生活の為です』
この言葉は軽喜劇のような作品ばかり撮る監督に、
弟子の今村昌平さんが「どうしてですか」と問うたことへの返事である。
「映画作りは、ひとえに生活のため」と割り切っていた。
これには一流の含羞が感じられる。
川島監督の作品にはいつもどこかにシャイなところが感じられて好きだ。
「新人にしてはよくできたシャシン」
以上は 大橋巨泉著 366日命の言葉 より一部抜粋
★川島雄三のプロフィール
青森県立野辺地中学校(現:青森県立野辺地高等学校)卒業。
明治大学専門部文芸科に入学、学生時代は映画研究部に在籍。大学卒業後、松竹大船撮影所監督部に入社。
撮影所前の松尾食堂に入り浸り、居候となる。
このときすでに筋萎縮性側索硬化症を発病していたらしい。初の助監督公募で、2000人中8人の採用に選ばれる。島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、野村弘将、木下惠介らの助監督を経る。1944年、監督昇進試験主席合格ののち織田作之助原作の『還って来た男』で監督デビュー。1946年、『追ひつ追はれつ』では日本初のキスシーンを撮った。松竹時代はコメディ映画を多く撮っていた。
家を持たず、浅草や新宿など、都内の行きつけの宿を家替わりに泊まり歩いていたが、銀座の小料理屋「菊川」で働く中村八重司に惚れこみ、当時高級住宅だった日活アパートで一緒に暮らし始める。幼い頃亡くなった川島の母に八重司はそっくりだった。
八重司は妊娠したが、川島は出産を許さなかった。
また、夜ごとスタッフと飲み明かす日々を送り、飲み代は当時の金で毎月50万円に達した。助監督の給料が1万円の時代に5万円の舶来の洋服を着ていた。健康にも気をつかい、マレー半島のコブラの脂など、20種類以上の薬にサラリーマンの給料分の金額を毎月つぎ込んでいた。
戦後はプログラムピクチャーを量産し、松竹で23本の映画を撮った。
1954年、日活へ移籍。『洲崎パラダイス赤信号』『幕末太陽傳』などの傑作を残す。
1957年、東宝系の東京映画へ移籍。かたわら大映でメガホンを取った『女は二度生まれる』『雁の寺』『しとやかな獣』の3作品で若尾文子と組み、作品を残す。
趣味はカメラで映画関係者、男優、女優らとミノックスの愛好会「ミノムシ・クラブ」を主宰。
監督昇進の頃から、筋萎縮性側索硬化症に冒され歩行等に障害を有していた。遺作『イチかバチか』公開の5日前に芝にある日活アパートの自室にて急死。直接の死因は肺性心。享年45。墓所はむつ市新町の徳玄寺。監督作品51本、待機作3本は未完となった。
☆彡6月11日 今日の一言 ブッダの言葉 ☆彡求めない
『渇愛の蜘蛛の巣を断ち切る』
自分だけが能内快楽を味わいたくて
「私のこと、ちゃんと理解してほしい」
「もっとちゃんと見てほしい」
「もっとちゃんと評価してほしい」
「もっとちゃんと愛してほしい」
と、わがままな欲望思考に君が洗脳されてしまうなら、
まるで蜘蛛が自分の意図に絡まるように、
自分の渇愛の糸に絡まり、その苦しさに窒息してしまうだろう。
君が智慧を武器にしてこの蜘蛛の巣を断ち切ったなら、
苦しみを捨てて悠々と歩いて行ける。
法句経347より
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